「レールに敷かれた人生ってなんだろう」
ある日、新宿に向かう電車に乗りながらこんなことを考えていた。
そもそも、レールに敷かれた人生という言葉とはどういうことだろうか。
以下はあくまで私自身の見方であるが、日本社会においては
「偏差値の高い高校からいい大学に進学して、大手企業に就職、20代半ばくらいで結婚して、子供を産んで家を建てて、子孫に見守られながら最期を迎える。」
というステレオタイプが形成されていると思っている。
電車に乗りながら見ていた先は反対方向のレールだった。
そのレールをみて、次のことに気づいた。
そもそも人生において、鉄道のように予め敷かれたレールの上を歩むことはありえない。
なぜなら、多くの人は自分の意思に基づいて進むべき道を決定しているからである。
根本的には人はみなレールを敷きながら生きているのだけれど、その実感が湧かないため「レールを敷かれた」という過去形になってしまうのではないか。
なぜレールを敷いている実感が湧かないのだろうか。
その要因は2つある。
1つは「王道」の存在。
もう1つは「王道」の周囲に模倣してレールを敷いているという行為があげられる。
「王道」とは前述で提示した「レールに敷かれた人生という言葉の一般論」である。
どこからか誕生した「王道」の周囲に自分もレールを敷いていることからレールのオリジナル感がなく、さらにレールを敷いている実感も湧かないものと考えている。
王道と王道の周囲に存在するレールという言葉だけでは少しわかりにくいと思われるので、ここで一つ例え話をしたい。
現在、東京と大阪を結ぶレール(道)として以下5つが挙げられる。
- 東海道新幹線
- 東海道本線
- 東名/名神高速道路
- 国道1号線
- 旧東海道
現在では東海道新幹線が王道であろう。
しかし、1960年代に東海道新幹線が開通するまでは東海道本線、さらに東海道本線が開通する大正期以前では旧東海道が王道であった。
このことから、東京大阪間における「真の王道」は旧東海道といえる。
それ以外の「東海道」は近代化が進行すると同時に「王道」の周囲に建設された。
ただし、名古屋までは概ね旧東海道に沿って完成したが、名古屋から大阪までのルートは関ヶ原/鈴鹿経由で異なるため、王道は二分化している。
王道の模倣は低リスクでわかりやすいという利点を有する。
旧東海道の周囲を模倣するように鉄道や道路が建設されたことで、東京大阪はより効率的に最短距離で結ばれるようになった。
その代わり、オリジナルや自由といった観点から疎遠となってしまうことに留意する必要はあるだろう。(物理的な道を敷くのであればいいかもしれないが、受験、就活、起業、人生など無形的なレールを敷いてく時には留意が必要であると考えている)
東海道新幹線は、東京駅を始発駅として、終点の新大阪駅まで結んでいる。
では、人生における始発駅と終点駅はどこだろうか。
私は、始発駅は「生れた瞬間」と終点駅は「死ぬ瞬間」と考えている。
よく「東大に受かれば人生安泰」とか、「大企業に勤めることで安定が得られる」という言葉を耳にする。
そうした言葉を否定するつもりはないのだが、東大や大企業に入ることが終点化してしまっていることは危惧するべきであると考えている。
その根拠は前述のとおり、人生の終点が「死ぬ瞬間」であると考えているからである。
東大や大企業に入るということは、人生を1本の路線に見立てた際、東海道新幹線で言うならば名古屋駅や新横浜駅のような「大きな中間駅」を建設したことと同義であると考えている。
人生における始発駅と終点駅は自然発生的に決まっている。
なら、その間にいかに線路を敷いていくか。どのような中間駅を建設していきたいか。
「王道」の周囲に沿って効率的に一直線で結ぶ人生も、低リスクで悪くはない。
しかし、今の自分で過ごせる人生というものは一度きりである。つまり、路線の建設も一度きりである。
一度きりであれば、オリジナルの路線を敷いてみるのがいいのではないだろうか。
一直線で敷こうとせず、時には右に、時には左に曲がったり。新横浜や名古屋のような大きな中間駅を少なく建設するのではなく、ローカル線の無人駅のような小さな駅を建設することも、また楽しいのではないだろうか。
鉄道業界に例えるなら、私はレールを敷いていく現場の人であると同時に、敷いたレールの上を運転する運転手でもあると考えている。
あと何年生きるかはわからないが、
オリジナルな路線を敷くための活動を止めないようにしないといけないと気付かされ、また実践していこうと強く感じている。